2003年、この石を扱った年。
あの頃はまだ液晶画面テレビが主流ではなく、
ブラウン管テレビはまだまだ健在だった。
インターネットが普及し始めてはいたけど、テレビの存在は絶大。
猫もよく上に乗っては尻尾を画面に垂らしていた。
ニューヨークのツインタワーが崩落する映像も、
この作品モデルとなった一人暮らしのアパートにあったテレビで見た。
現在よりも限定され少ない情報を受け取る画面。
その前に対峙する私たちに変化を吟味すると、
結局のところあまり変わりはないようにも思える。
情報の取捨選択の幅、情報アクセスの容易さ、その場に生まれる細分化されたコミュニティ。
変化はあったが、おそらくそれは、
環境の変化であって、条件の変化であって、
動物としての劣化を補うだけの知恵を肥やしただけで、
人は変わっていないだろう。
物質的な裏側とタイトル
ちなみに彫刻作品には物質として裏側がある。
タイトルは『テレビの前の〜』であるのに、前だけでなく裏側が存在している。
制作した本人としては矛盾は生じていない。
なぜならば、この石全体で『テレビの前の判断停止』という存在だから。
本人の矛盾は、その作品自体は既に存在していないという点においてが大きい。
存在しない作品を本人が自身の存在そのものであると認識しているのは、
それぞれの人間を形成する過去の記憶や、亡くした肉親についての感覚に近いように思う。
この事については、いづれ吟味したい。
タイトル『〜判断停止』部分については、
情報を受け取り一瞬たりとも反芻しない状態と、
哲学用語のエポケーを夢想する時間、
どちらも個人的な経験に基づいての言葉遊びでもある。
石の仕上げは、
テレビの画面部分が鏡面、黒御影石の最も深い色が出ている。
その他の部分は全て、色味が出つつマットな仕上がりになる#600の砥石仕上げ。
テレビの前の判断停止・Epoché davanti alla TV
H45W55D85(cm) 2003年
黒御影石