画像とそれを伝える新しい手段が、
ふと気づくと誰もが利用する日常のものとなり、
例えば、この画像は現在の私のデスクの右側の様子。
以前はフィルムカメラで自宅ではない場所の写真を撮り、
現像して、スキャナーでフィルムを読み込み、
少ない容量のデスクトップPCからCDに焼いていた。
それが2000年台だったな、と。
それが、私が制作を停止した時期だったので、
その後が空白になっていた。
およそ20年のブランク。
表記するのであれば、about:blank が感覚的に近いような気がする。
予期せず、違和感はなく、残り香もなく、ゼロの瞬間。
Attualmente
早い話、
自重せずとも誰にも迷惑はかからず、
謙遜せず遠慮せずとも誰も批判する訳でのない、
そんな時期なのだと思う。
美術史を勉強する事は各時代の歴史と政治を見るのに同じくしている。
意図して論理に沿った作品を制作してもしなくても、
同時代に生きる者としては必ずその枠内に収まってしまう。
アートの神格化もビジネスもブランディングも、
それが在るという以上でも以下でもなく。
現実としてこの与えられた記号の文字(筆跡など物的情報は含まない)の自由があり、
そこに投影されるのはデジタルタトゥーになるべくして刻まれる情報。
もしくは完全消去されるデータとしての私。
データと日常と過去の記憶との境界線はあいまいだ。